『バカの壁』を読んで。

養老孟司さんの『バカの壁』を読んでみた。
2年程前にベストセラーになっていたものだ。
キャッチーなタイトルとベストセラーという事実からもう少しわかりやすい内容かと思っていたら、かなり難解でビックリ。
本当に全ての意味を理解するには、かなり読み込まないと難しそうだ。
取り敢えず、気になった点をまとめます。

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

・この事実と推論とを混同している人が多い。厳密に言えば、「事実」ですら一つの解釈であることがあるのですが。


・人の行動を「y=ax」という簡単な式で説明。xが入力で、脳が何らかの係数aをかけて出て来た答え(=反応)がy。a=0の時が無関心なとき。その逆のa=無限大が原理主義。つまり、ある情報、信条がその人にとって絶対的な現実になる。両方とも始末が悪い。
入力に対して適切なaを設定できるということが、環境に適応するということ。脳を入出力装置、計算機と考えたら当たり前のこと。


・意識というのは共通性を徹底的に追求するもの。その共通性を確保するために、言語の伝統・文化がある。人間の脳の意識的な部分は、個人間の差異を吸収して同じにしようという性質を持っている。だから、言語から抽出された論理は、圧倒的な説得性を持つ。論理に反するということはできない。


・個性なんていうのは元々与えられているものであってそれ以上でも以下でもない。個性は脳ではなく身体に宿っている。


・万物は流転する。人は日々変わっている。脳は社会生活を営むために、共通性を求めるが、それだけでなく、自己同一性も求める。私は私だと思い込む。その逆に情報は永遠に残る。生物と情報の違いはまさにこれ。


現代社会は情報化社会。言い換えると意識中心社会、脳化社会。実際には日々刻々と変化している自分を自己同一性により私は私と規定してしまうこと。つまり、自分の情報化。不変の情報とすること。だからこそ、人は個性を主張する。私は私。自分には変わらない特性がある。その思い込みがなくては個性は存在するとは言えない。


・昔の人は個性そのものが変化してしまうことを知っていた。祇園精舎の鐘の声・・。ゆく川の流れは絶えずして、しかももとのみずにあらず。世の中にある、人とすみかと、またかくのごとし。(方丈記
「君子豹変」とは悪い意味ではなく、君子は過ちだとしれば、それをすぐに改めるという意味。


・いつのまにか変わるもの(人間、生物)と変わらないもの(情報)の逆転が起こっていてそれに気づいている人が少ない、という状態。カフカの「変身」は
19世紀西洋の都市化、情報化の中で、変わらない人と変わる情報という正反対のあり方で意識されるようになった現代社会の不条理をテーマにしたもの。

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)


・知るということは、自分が変わるということ。同じ物を見ても見え方が変わってしまう。


・意識や心の世界は感情も理屈も共通であることを前提にする。それがお互いに話や説明をすることの意味。だから、本来、意識の世界に個性を持ち込まれたらどうしようもない。(コミュニケーション、認識とは、意識が言葉によって共通性を求めるということ?)


・意識にとっては、共有化されるものこそが、基本的には大事なもの。一方、個性を保証していくものは、身体であるし、意識に対しての無意識。今の人は逆に、意識の世界こそが個性の源だと思っている。確かに一種の個体ではあるし、遺伝情報は変わらない。しかし、大きく両者(生物と情報)を見て変わらないのはどちからを考えればわかるはず。だから、若い人には個性的であれなんて言わないで、人の気持ちがわかる様にしろ、という言うべき。放っておいたって個性的なんだ。


・リンゴを書かせると皆違うし、発音させてもみんな違う。でも、それがリンゴだとわかる。プラトンはこれに対して、リンゴという言葉が包括している全ての性質を備えた完全なリンゴが存在すると定義した。それがイデア。言葉は意識そのもの、それから派生したもの。異なるリンゴに対して、我々がリンゴだと言うのは、脳が全てを同一なものだと認識することができるから。本来ならば全てのものは感覚で吟味する限り、全てのものが異なる。なぜ、そんな機能を持つかというと、そうでないと、世界がバラバラになってしまうから。耳から認識した世界と目から見た世界が別々ではしょうがない。だから、同一のものと脳=意識は言わざるをえない。


・リンゴという言葉を聞いた時に、脳ではリンゴ活動が起きる。現物のリンゴを見た時と、リンゴをイマジネーションした時に、脳で起こる活動はほぼ一緒。つまり、リンゴという言葉が持っている意味は、一方では外からのリンゴだけど、もう一方は脳の中でのリンゴ活動。


・There is an apple on the table.という言葉を聞いた時に頭の中で起こるリンゴ活動が不定冠詞。 実際に手で机のリンゴを触った時に認識するのが、the apple 定冠詞。リンゴ活動のリンゴは不特定。=イデア。外界のリンゴはそれぞれ別で、特定のリンゴ。頭の中のリンゴは意識は同一だと見なすけれども、色も形も大きさも何も固まっていない。それは不定だから、an.


・日本語にa,theはないけれど、同じ意味は助詞等で表現されている。「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさん「が」おりました。おじいさん「は」山へ芝刈りに・・」この「が」と「は」の違いが、まさにそれ。


・外部からの入力と出力の間に位置するのが脳。只、外部からの刺激だけでなく、脳の中で入出力をグルグル回せる様になった。これが「考える」ということ。これをしないと、退化してしまう。抽象的なもの、概念は、外部と関連しているんだけれども、基本的には脳の産物。イデア。人間はそういう頭の中に作ったものを、実際に外に作り出すという作業をしてきた。


・入力と出力が限定的になってしまうと、同じプログラムをまわしているだけだから、不健康。


・V・E・フランクルという人の「意味への意思」、「生きる意味を求めて」の中で人生の意味を考え、「意味は外部にある」と言っている。「自己実現」等と言うが、実現する場は外部にしかないのだから、人生の意味は自分で完結するものではなく、常に周囲や社会との関係から生まれる。とすれば、日常生活において意味を見いだせる場は「共同体」しかない。

「生きる意味」を求めて (フランクル・コレクション)

「生きる意味」を求めて (フランクル・コレクション)

(続く)